関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わると、安国寺恵瓊は戦場を離脱して京都に潜伏しましたが、ほどなくして奥平信昌の手勢に捕縛されました。
徳川家康が恵瓊に下した処分は極刑でした。慶長5年10月1日(1600年11月6日)、石田三成、小西行長とともに京都・六条河原で斬首され、三条河原に首が晒されました。僧侶でありながら、なぜこれほど過酷な処刑理由が適用されたのでしょうか。
理由は明白でした。家康にとって恵瓊は、毛利輝元という最大級の巨頭を反徳川の旗頭に担ぎ上げた「合戦の事実上の主犯格・黒幕」とみなされたためです。毛利家を西軍に引きずり込み、全国の大名を二分させた張本人としての責任を厳しく追及された結果でした。