奥多摩むかし道が他のハイキングコースと決定的に異なるのは、その道が「観光のために作られた道」ではなく、「生活のために使われ、そして放棄された道」であるという点だ。
奥多摩町公式の郷土資料や東京都教育委員会の文化財調査報告によれば、この道は江戸時代、奥多摩の山間集落と青梅・五日市方面を結ぶ物資輸送路、いわゆる「塩の道」「炭の道」として機能していた。特に注目すべきは、明治から昭和初期にかけて整備された石畳区間の存在だ。急峻な斜面でも馬や人が荷を運べるよう、地元の石工が一枚ずつ敷いたと伝えられる。
そして、もうひとつの顔が「廃村」である。
戦後の高度経済成長期、ダム建設(小河内ダム)や林業衰退、生活インフラ整備の限界により、奥多摩の山間集落は相次いで消滅した。むかし道沿いに点在する石垣、墓石、畑の跡、炭焼き窯の残骸は、そうした「消えた集落」の生活の証だ。歩く者は、単なる自然景観ではなく、かつて誰かがここで生まれ、働き、死んでいった痕跡の上を歩いていることになる。
「道の途中で、朽ちかけた鳥居と無縁仏に出会った時、言葉にならない感覚があった。観光地のハイキングとは全く別物だと、その時初めて理解した」
これは、2026年秋に当編集部が現地で声をかけた都内在住の40代男性ハイカーの言葉だ。SNSやブログの感想でも「歴史の重みを感じた」「静かで厳かだった」という声が目立つ一方で、「想像以上に荒れていた」「道がわかりにくかった」という現実的な指摘も多い。