暗殺が決行されたのは、文久3年9月16日(新暦1863年10月28日、諸説あり9月18日とも)の深夜でした。降りしきる豪雨の中、壬生村の前川邸と八木邸を宿舎としていた浪士組の中で、凄惨な惨劇の幕が上がります。
現場となった八木邸の当時12歳の当事者、八木為三郎が後年に語り遺した回顧録(子母澤寛『新選組遺聞』収録)には、当時の生々しい現場の様子が克明に記録されています。
当夜、近藤派の隊士たちは島原の角屋(すみや)で芹沢派を招いた大宴会を催しました。芹沢鴨は酒豪として知られていましたが、この日は近藤や土方らから執拗に酒を勧められ、完全に泥酔状態で八木邸の奥座敷へと帰館します。そこには芹沢の愛妾であったお梅(島原の芸妓、一説には呉服商の世話になっていた美女)や、芹沢派幹部の平山五郎らが同席していました。
寝静まった深夜、雨音に紛れて刺客たちが奥座敷へと侵入します。実行犯として名を連ねたのは、土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田左之助ら試衛館派の精鋭部隊でした。八木為三郎の証言によれば、まず平山五郎が一撃で首を刎ねられ、隣にいたお梅も喉元を突かれて絶命しました。
異変に気付き飛び起きた芹沢鴨は、泥酔状態でありながらも枕元の愛刀を手にして応戦しようとしました。しかし、暗闇の中で激しい斬撃を受け、床に置かれていた文机(机)に足を取られて前のめりに転倒。そこへ刺客たちの刃が一斉に浴びせられ、めった斬りにされて絶命しました。芹沢の直接の死因は全身多発性の刺突・斬創による失血死でした。
現在も京都市中京区に残る八木邸の奥座敷には、芹沢鴨が倒れる際に刀が当たったとされる生々しい「鴨居の刀傷」が保存されており、当時の凄まじい現場の気迫を今に伝えています。