能楽堂の舞台に立ち会うと、般若の面が持つ特異な視覚効果に戦慄を覚えます。仮面劇でありながら、般若は照明や演者の首の角度(アングル)一つで、千変万化の表情を見せるからです。
能の身体技法には、面をわずかに上に向ける「テラス(照らす)」と、下に向ける「クモラス(曇らす)」があります。般若の面を装着したシテ(主役)が首を下げてクモラスと、額の影が目元に深く落ち、釣り上がった眉の間に深い影が刻まれます。この瞬間、恐ろしいはずの鬼の顔が、愛する人を失って慟哭する「耐えがたい悲しみ」の顔へと変貌します。
逆に、首を跳ね上げてテラスと、舞台の明かりが金色の瞳(金泥の金具)に反射し、耳元まで裂けた口元の牙がギラリと輝きます。そこに出現するのは、前段階の悲しみを一切拒絶し、すべてを滅ぼさんとする「純粋な怒りと怨嗟」です。
能楽関係者や一流の面打ち師が異口同音に語るのは、「般若の命は怒りではなく、泣きの表情にある」という事実です。怒り狂っているだけの造形であれば、見る者は単に恐怖を覚えて終わります。しかし、激しい怒りの仮面の下で今にも涙を流しそうな女の哀切が覗くからこそ、観客は背筋を凍らせながらも胸を締め付けられるのです。